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『外務省外交史料館』
 続いて向かったのは、『小村寿太郎侯』が外務大臣時代に活躍した様々な歴史的史料が収集保存されている『外務省外交史料館』です。
 港区の麻布台にあり、地下鉄南北線六本木1丁目駅より、歩いて7~8分の飯倉交差点付近の麻布郵便局の隣にあります。
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 正面玄関脇には、九州・沖縄サミット(2000年)を記念して那覇の壺屋焼チブルシーサーが展示してあります。  
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 史料館では、先ず閲覧室に案内されました。
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 事前にご相談していた米内外務事務官に小村寿太郎に関わる日露戦争関係資料の閲覧など様々な対応をしていただき、大変お世話になりました。大変貴重な当時の外交文書には小村外相の花押があり、逐一これらの外交文書に小村自身が目を通していたことが伺えました。 
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 今後必要な文書等は、複写申込書により申し込んでおきましたが、後日送付されるとのことです。

 続いて隣接している『外交史料館別館』に入館しました。
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 ここは、『吉田茂記念資料特別展示所』になっておりますが、展示室入り口ではいきなり『吉田茂』氏の胸像が出迎えです。
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 展示室では、現在『原敬と転換期の日本外交』がの企画展示されていました。『原敬』が生きた時代は、小村も活躍した時代です。ここでは当時の日本外交を当館所蔵の関係史料を通じて紹介されています。
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 その中で私の目をひき付けたのは日露講和条約に尽力した『小村寿太郎侯』の展示場所です。
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 歴代外務大臣のなかで特に評価の高い『小村寿太郎侯』が、『陸奥宗光大臣』と共に展示室の中央に堂々と展示されていたのです。そしてその向かい側には、あの『吉田茂首相』が青山の墓地のように前後に展示されています。
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 三国干渉の遺恨と満韓をめぐる対立から日本の国論は沸騰し、政府はロシアとの開戦を決意しました。 1904(明治37)年2月5日、小村寿太郎外務大臣は栗野慎一郎駐露公使に対して、ロシア政府に国交断絶の通告公文を提出するよう命じました。その訓電の冒頭には小村外相の花押(その独特の形をたとえて「帆掛け船」と呼ばれました)がみられるそうです。翌日公文がロシア政府に提出されるのと同時に、小村外相は駐日ロシア公使ローゼンにも国交断絶を告げ日露の戦争が決定的となりました。
 戦費や物資の問題から長期戦を回避したかった日本は開戦当初より早期講和を目指し、アメリカに講和の斡旋を求めました。日本海海戦により日本の勝利が決定的なものになると、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトはロシアに対して講和を強力に勧告し、ロシアもこれを受け入れることになりました。

 そしてこれが、1905(明治38)年8月、アメリカのニューハンプシャー州ポーツマスにおいて講和会議が開催され、9月5日、日本側全権小村とロシア側全権ウィッテが調印した、15条の本文と2条の追加約款からなる講和条約です。
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 調印には両全権のほか、高平小五郎全権、ローゼン全権の署名がみられます。条約と関係文書は全部で12通作成され、各全権は12回の署名をしなければなりませんでしたが、小村全権はそのたびに新しいペンを用いてサインしたとされています。

 日本政府は10月14日にこれを批准し、11月25日、ワシントンで批准書交換が行われました。
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 ロシア側批准書には紫の装丁が施されています。また、蝋缶にはロマノフ王朝の紋章である双頭の鷲が用いられています。

これは、明治時代の外務省です。恐らく『小村寿太郎侯』もここで執務を行っていたと思います。
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 講和条約の発効によって日本は樺太の南半分を獲得し、樺太では1906(明治39)年より境界画定作業が行われました。
 作業終了後に作成された「樺太島日露境界画定紀要」によれば、境界線は「東「オコツク」海ヨリ西韃靼海峡ニ亘リ天文測量ニ依ル北緯五十度ノ線ニ準フテ」画定され、北緯五十度の基準として四カ所に大標石が設置されたのち、十七個の小標石が置かれ、他に標木も据えられました。大標石は花崗岩でつくられ、北側の表面には双頭の鷲が、南側の表面には菊花章が刻まれていたようです。
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 しかし、このような『小村寿太郎侯』の命を懸けた努力が、太平洋戦争によって全てを失ってしまいました。
 皮肉にも、『外務省外交史料館』の通りの向こうには『ロシア大使館』があり、こちらを伺っているように見えます。
 小村侯が後20年いやせめて10年でも長生きしていたら、日本はまた違った道を歩いていたかも知れません。
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