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『小倉処平』と『小村寿太郎』
 飫肥が生んだ明治の偉大な外交官「小村寿太郎侯」の才能を見抜き育てたのが、『小倉処平』。彼の存在なくして小村侯は語れません。
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 小倉処平は、飫肥藩の中級藩士・長倉家で生まれましたが、藩校「振徳堂」で学び、18歳のとき小倉家の養子となりました。藩命で京都で藩の外交を担い、帰藩すると振徳堂の舎長にも選ばれ、その指導理念は、広く世界へ目を向ける進歩的なもので、塾生から尊敬を集めていたようです。
 その後、振徳堂で寿太郎に会い、彼の将来性に着目して英語留学のため公費による留学制度を藩主に進言し、自ら長崎へ引率しました。さらに寿太郎を育てるという目的達成のため、当時大藩の子弟のみに開かれていた大学南校(現、東京大学)に入学させるべき、小藩からも1名の入学枠を定めた「貢進生制度」を確立し、寿太郎をその一期生として入学させました。ここから、寿太郎の才能がいかん無く発揮され、大成する契機を得たといっても過言ではない。
 二人が学んだ藩校「振徳堂」の敷地には『小倉処平』の顕彰碑と『小村寿太郎』の胸像が建立されています。
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 小倉は、その後海英国やフランスに留学し政治や経済を学びましたが、征韓論決裂で西郷隆盛・板垣退助らが下野すると、急いで帰国し飫肥に帰郷しました。
 また1874年の佐賀の乱で敗れた首領江藤新平らが、秘かに処平を頼って飫肥に潜入してきたのをかくまい、土佐へ逃亡させました。そのために彼は禁錮刑に服しましたが、服役後大蔵省七等出仕となったようです。
 さらに西南戦争が起こると、再び帰郷し薩軍奇兵隊総監として転戦したが、現在の延岡市にある和田越の戦いで銃創を受け自害しました。
 飫肥藩士も約1000人が、「飫肥隊」として参戦し、小倉処平など200人以上の英才を失いました。
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 飫肥の西公園には、西南の役の以降の英霊が祭ってあり、その一画に西南の役の戦死者の墓や「60年追悼碑」、「西南役100周年追悼碑」が並んでいます。
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 その墓地の奥にある、一際大きいのが『小倉処平』の墓石です。
 この公園からは、天然の外堀といわれた酒谷川の対岸に、飫肥の城下町が一望できます。
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 『小倉処平』は、惜しまれる32歳の若さで亡くなりましたが、寿太郎侯は帰省すると、先ず最初に処平の墓を参ったと伝えられています。寿太郎侯が成し得た成果は、本人の優れた才能と努力だけでなく小倉処平あっての功績だということです。これからもっと『小倉処平』という人物に目を向けていきたいと思います。
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