4月29日は、飫肥城下町「食べあるき・町あるき」がスタートして3周年になります。
記念イベントとして様々な催しが行われました。

本日は、日南市と飫肥城下町の人気キャラクター「にちなんぢゃ様」と「あゆみちゃん」のゆるキャラも参加して、お客さんをお迎えしてくれました。

県内外からも「食べるき」ツアーや団体の皆さんが、大勢お見えになりました。

今人気の「侍」さん! 午前中は「小村寿太郎侯」に扮してあちこちで出没しサイコロ勝負を迫る子どもたちに追いかけられていました。

本日は、泰平踊の定期公演もありましたが、雲行きが心配され急きょ「小村記念館」に会場を変更して披露されました。

後町通りの鯉の泳ぐ水路や本町商人通りも「食べあるき・町あるき」の観光客が、一日中賑わっていました。


3周年記念イベントでは、マップ購入者特典として、この他「飫肥商店会」より100円商品券、竹井菓子さんから3種類の和菓子、保存会からはお菓子詰め合わせなど大変お得な商品がプレゼントされました。お陰でマップを買い求められたお客さんも、飫肥の城下町を満喫され、大変ご大満足の様子でした。
4年目を迎えた「食べあるき・町あるき」事業、今後も保存会の職員のアイデアを駆使するととtもに、地域の皆さんとの連携を図り、いろいろなイベントや仕掛けなどを企画してまいります。そして、更に事業の魅力アップを図りたいと思います。
記念イベントとして様々な催しが行われました。

本日は、日南市と飫肥城下町の人気キャラクター「にちなんぢゃ様」と「あゆみちゃん」のゆるキャラも参加して、お客さんをお迎えしてくれました。


県内外からも「食べるき」ツアーや団体の皆さんが、大勢お見えになりました。


今人気の「侍」さん! 午前中は「小村寿太郎侯」に扮してあちこちで出没しサイコロ勝負を迫る子どもたちに追いかけられていました。

本日は、泰平踊の定期公演もありましたが、雲行きが心配され急きょ「小村記念館」に会場を変更して披露されました。

後町通りの鯉の泳ぐ水路や本町商人通りも「食べあるき・町あるき」の観光客が、一日中賑わっていました。


3周年記念イベントでは、マップ購入者特典として、この他「飫肥商店会」より100円商品券、竹井菓子さんから3種類の和菓子、保存会からはお菓子詰め合わせなど大変お得な商品がプレゼントされました。お陰でマップを買い求められたお客さんも、飫肥の城下町を満喫され、大変ご大満足の様子でした。
4年目を迎えた「食べあるき・町あるき」事業、今後も保存会の職員のアイデアを駆使するととtもに、地域の皆さんとの連携を図り、いろいろなイベントや仕掛けなどを企画してまいります。そして、更に事業の魅力アップを図りたいと思います。
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一昨日、着物を着こなされた大勢の皆さんが、飫肥城下町の散策を楽しまれました。

皆さんは、JR日南線の観光特急列車「海幸山幸」の臨時便を貸切って飫肥駅までお見えになったとのこと。
飫肥駅からは、それぞれ飫肥城下町の散策をしながらチケット販売所まで歩いてお見えになったようです。

そこからは、皆さんは飫肥城の全ての由緒施設の見学や「食べあるき・町あるき」の引換えのできるマップを手に持って、城下町の風情を味わいながら思い思いに街の散策をされていました。

観光ガイドボランティアの皆さんの案内での由緒施設巡りや、四半的に挑戦したりして楽しまれていました。
また、祐兵クラブのご協力で人力車に乗ったり、食べあるき体験などで飫肥城下町を満喫されたようです。

散策を済まされ方は、侍とのすごろく勝負やビンゴ―ゲームなどで盛り上がっていました。

今回参加された皆さんの中には、女性の方だけでなく若い男性もいらっしゃいました。普段から着物に着慣れていらっしゃるようで、かしこまったような様子はありません。

飫肥の城下町は、着物姿がとっても似合います。今回のイベントを企画された宮崎市の児玉さんに感想をお聞きすると「とっても楽しくて皆さん時間が足りないようでした。次回は、涼しくなって季節を変えて企画してみようと思います」とのことでした。 私ども飫肥城下町保存会といたしましても、皆さん方とも連携を取らせていただき、次回の開催向けご協力したいと思います。

皆さんは、JR日南線の観光特急列車「海幸山幸」の臨時便を貸切って飫肥駅までお見えになったとのこと。
飫肥駅からは、それぞれ飫肥城下町の散策をしながらチケット販売所まで歩いてお見えになったようです。


そこからは、皆さんは飫肥城の全ての由緒施設の見学や「食べあるき・町あるき」の引換えのできるマップを手に持って、城下町の風情を味わいながら思い思いに街の散策をされていました。


観光ガイドボランティアの皆さんの案内での由緒施設巡りや、四半的に挑戦したりして楽しまれていました。
また、祐兵クラブのご協力で人力車に乗ったり、食べあるき体験などで飫肥城下町を満喫されたようです。


散策を済まされ方は、侍とのすごろく勝負やビンゴ―ゲームなどで盛り上がっていました。


今回参加された皆さんの中には、女性の方だけでなく若い男性もいらっしゃいました。普段から着物に着慣れていらっしゃるようで、かしこまったような様子はありません。

飫肥の城下町は、着物姿がとっても似合います。今回のイベントを企画された宮崎市の児玉さんに感想をお聞きすると「とっても楽しくて皆さん時間が足りないようでした。次回は、涼しくなって季節を変えて企画してみようと思います」とのことでした。 私ども飫肥城下町保存会といたしましても、皆さん方とも連携を取らせていただき、次回の開催向けご協力したいと思います。
先日、雨が降っていた早朝の飫肥城で大手門から階段を上がった犬馬場の石垣を見てビックリ。その石垣の間から何かが吹き出していました。

良く見ると飫肥城の主たる土壌であるシラスが、吹き出して流れ落ちているではありませんか。

早速、塀の裏の情況を調査したところ、何と大小2個の穴が開いて落ち込んでいます。

原因は、この穴から流れ出した雨水が石垣の裏のシラス土壌を流出させたものと判明しました。

早速、城外から砂を運び込み、水穴を埋めるための作業を行いました。

いつもお世話になっている造園業者のご協力もあり、雨の予報の前に何とか終えることができました。これで一安心!

「千丈 の堤も蟻の一穴から崩壊」という諺がありますが、早く気付いて良かった。それにしても長年の風雨等の影響で、飫肥城も至る所に傷みが出ています。市当局とも連携して、更に適切な施設の維持管理に努めたいと思います。

良く見ると飫肥城の主たる土壌であるシラスが、吹き出して流れ落ちているではありませんか。


早速、塀の裏の情況を調査したところ、何と大小2個の穴が開いて落ち込んでいます。

原因は、この穴から流れ出した雨水が石垣の裏のシラス土壌を流出させたものと判明しました。


早速、城外から砂を運び込み、水穴を埋めるための作業を行いました。


いつもお世話になっている造園業者のご協力もあり、雨の予報の前に何とか終えることができました。これで一安心!

「千丈 の堤も蟻の一穴から崩壊」という諺がありますが、早く気付いて良かった。それにしても長年の風雨等の影響で、飫肥城も至る所に傷みが出ています。市当局とも連携して、更に適切な施設の維持管理に努めたいと思います。
ユネスコの世界遺産として早くから(1979年)登録されているフランスの人気の観光地「モン・サン・ミシェル」です。

ここはフランス西部、ノルマンディー地方にある湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院です。
709年に司教オベールが大天使ミカエルのお告げにより、礼拝堂を作ったのが始まりとのこと。

ラヴァンセ門をくぐり抜けると、みやげ物店などが軒(?)を連ねる狭い参道が続き、多くの観光客で賑わっていました。

大小様々な階段を登っていくと修道院が迫ってきます。

そしてここが、教会堂の正面です。祭壇に向かい礼拝する時に聖地エルサレムを向くように、入り口は西にあるらしい。

このテラスからは、先ほどバスから降りた駐車場や食事をした対岸の村が遠望できます。 駐車場には多くの乗用車が駐車していましたが、大型バス等は乗客が下車した後は、出発の時間まで少し離れた場所に待機しているとのこと。

こちらが修道院内です。手前はロマネスク様式で奥の方が1523年に建てられたとされるゴシック様式の内陣です。

「ラ・メルヴェイユ」と言って「驚嘆すべきもの」という意味の建物。こちらは修道院の居住空間で、グリーンの小奇麗な庭園の周りが回廊になっています。修道士たちがこの回廊を回りながら瞑想したそうです。

こちらは、修道士たちの食堂だそうです。食事中は一言も喋ることができず、司教の説教を黙って聞き入って静かに食事をしたそうです。ところでヨーロッパの皆さんの食事中は、色々会話を楽しみながら賑やかにお食事をされますが、想像できませんね。

地下の方に階段を下りると、上部を支えるため石の円柱や壁など太く厚くなっています。またこの「巻き上げ車」は食料や建設資材などを運び入れるためのもので、取り付けてあるロープが、窓から外壁の下まで伸びていました。

帰りの参道では、外国の観光客以上に多くの日本人観光客の皆さんが、ショッピングや食事をされていました。
・
そしてこれが昼食に出た名物となっている「モンサンミッシェルオムレツ」です。ここに住んでいたプラールと言うおばさんが、貴重な玉子を使って巡礼者のために、何とかボリューム感のある料理はできないかと考えて作られたのが、ふわふわのオムレツです。

玉子の白味の部分を泡立てて作るそうです。見た目は丸々してますが、食べたかどうか分からないほどで、これが本当の「泡を喰った」と言うことでしょうか!
その他、プラールおばさんが作ったと言われるクッキーもモンサンミッシェルの名物として有名です。

11世紀に大聖堂が建てられましたが、12世紀には更に拡張され、13世紀にゴシック様式の建物も加わります。このためロマネスク様式とゴシック様式が混在する珍しい構造のようです。
14世紀に起きた百年戦争では、要塞として強化されました。また、18世紀末から19世紀かけておきたフランス革命のナポレオン時代には、牢獄となったそうです。このように「モン・サン=ミシェル」は修道院、要塞、牢獄などとその機能を変遷して激動の時代を生き抜いてきました。
現在では修道士3人が住んでいて、9人の修道女が通って来て修道院の運営に当たっているそうです。
サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られ、もともと満潮時は完全に本土と切り離された孤島でした。このため溺死する巡礼者も多かったそうです。しかし1877年に本土と道路で繋がれ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになったようです。
ちなみに、モン・サン=ミシェルと世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市とは、2009年に観光友好都市提携の調印締結をされたとのこと。どおりで参道のあちこちに日本語の看板などが見受けられました。

ここはフランス西部、ノルマンディー地方にある湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院です。
709年に司教オベールが大天使ミカエルのお告げにより、礼拝堂を作ったのが始まりとのこと。


ラヴァンセ門をくぐり抜けると、みやげ物店などが軒(?)を連ねる狭い参道が続き、多くの観光客で賑わっていました。


大小様々な階段を登っていくと修道院が迫ってきます。


そしてここが、教会堂の正面です。祭壇に向かい礼拝する時に聖地エルサレムを向くように、入り口は西にあるらしい。

このテラスからは、先ほどバスから降りた駐車場や食事をした対岸の村が遠望できます。 駐車場には多くの乗用車が駐車していましたが、大型バス等は乗客が下車した後は、出発の時間まで少し離れた場所に待機しているとのこと。

こちらが修道院内です。手前はロマネスク様式で奥の方が1523年に建てられたとされるゴシック様式の内陣です。

「ラ・メルヴェイユ」と言って「驚嘆すべきもの」という意味の建物。こちらは修道院の居住空間で、グリーンの小奇麗な庭園の周りが回廊になっています。修道士たちがこの回廊を回りながら瞑想したそうです。


こちらは、修道士たちの食堂だそうです。食事中は一言も喋ることができず、司教の説教を黙って聞き入って静かに食事をしたそうです。ところでヨーロッパの皆さんの食事中は、色々会話を楽しみながら賑やかにお食事をされますが、想像できませんね。

地下の方に階段を下りると、上部を支えるため石の円柱や壁など太く厚くなっています。またこの「巻き上げ車」は食料や建設資材などを運び入れるためのもので、取り付けてあるロープが、窓から外壁の下まで伸びていました。


帰りの参道では、外国の観光客以上に多くの日本人観光客の皆さんが、ショッピングや食事をされていました。
・

そしてこれが昼食に出た名物となっている「モンサンミッシェルオムレツ」です。ここに住んでいたプラールと言うおばさんが、貴重な玉子を使って巡礼者のために、何とかボリューム感のある料理はできないかと考えて作られたのが、ふわふわのオムレツです。


玉子の白味の部分を泡立てて作るそうです。見た目は丸々してますが、食べたかどうか分からないほどで、これが本当の「泡を喰った」と言うことでしょうか!
その他、プラールおばさんが作ったと言われるクッキーもモンサンミッシェルの名物として有名です。

11世紀に大聖堂が建てられましたが、12世紀には更に拡張され、13世紀にゴシック様式の建物も加わります。このためロマネスク様式とゴシック様式が混在する珍しい構造のようです。
14世紀に起きた百年戦争では、要塞として強化されました。また、18世紀末から19世紀かけておきたフランス革命のナポレオン時代には、牢獄となったそうです。このように「モン・サン=ミシェル」は修道院、要塞、牢獄などとその機能を変遷して激動の時代を生き抜いてきました。
現在では修道士3人が住んでいて、9人の修道女が通って来て修道院の運営に当たっているそうです。
サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られ、もともと満潮時は完全に本土と切り離された孤島でした。このため溺死する巡礼者も多かったそうです。しかし1877年に本土と道路で繋がれ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになったようです。
ちなみに、モン・サン=ミシェルと世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市とは、2009年に観光友好都市提携の調印締結をされたとのこと。どおりで参道のあちこちに日本語の看板などが見受けられました。
ドイツの観光で、今回最も楽しみにしていた城の一つ「ノイシュバンシュタイン城」です。この写真は、ペラート峡谷にかかるマリエン橋から撮影したもの。

この城は、バイエルン国王ルートヴィッヒ2世が、自分の中世への憧れを具現化する城を造ろうと、中世騎士の城をイメージし贅の限りを尽くして建てられた神秘的でメルヘンチックな城。また現実から逃避するために、ファンタジーなお城が造られました。それがノイシュヴァンシュタイン城です。ワーグナーの楽劇の世界に大変な興味を示し、城内はワーグナーのオペラをモチーフにした壁絵で飾られています。残念ながら城内の撮影はできません。この城の見学は、予約できないため、1時間前には来て手続きをしなければ、入城できないとのことでした。

このおとぎ話に出てくるような城の設計(グランドデザイン)を指示されたのは、建築技術者でなく、当時宮廷劇場の舞台装置や美術を担当していた画家で、ことからして絵のように美しい城ができたと思われます。

ここはオーストリアとの国境の近く、バイエルン州フュッセンの南方にあり、ドイツ・ロマンティック街道の終着に位置しています。ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなっていて映画「チキチキバンバン」のロケにも使用された人気の観光スポットで、フランクフルトから日帰りで訪れる観光客も多いとのこと。
この城からは、ルートヴィッヒ2世が子供時代を過ごしたホーエンシュバンガウ城(父マクシミリアン2世が築城)が美しい湖とともに眺められます。

シュヴァンガウは、ロマンティック街道の南端に位置する小さな村で、はるか下流には周りに牧草地が広がるのどかなバイエルンの牧歌的な農村風景が広がっています。

麓から城までは、坂道を徒歩で登って行けますが、馬車やバス(いずれも有料)を利用する方法もあります。

この城は1869年に建設に着手し、17年後の1886年に未完成部分を多く残したまま中止されましたが、居住できる程度にはできあがったそうです。また、この他にも城の建設を始め、ノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大な城や宮殿を建設する考えを持っていたと言うから驚き。
これらの建設費用は王室費が充てられていたため公債を乱発するなど、借金を積み重ねていたそうです。このため、危機感を募らせていたバイエルン政府は、ルートヴィヒ2世を精神病の鑑定にかけ、ベルク城に軟禁したました。ところがその翌日、精神病の宣告をした主治医と散歩に出かけ、シュタルンベルク湖畔で水死体となって見されたとのこと。
ノイシュヴァンシュタインという名の、「ノイ (Neu)」は「新しい」の意味で、シュヴァンガウは「白鳥河口」の意味があるそうです。
芸術を愛し、中世の騎士伝説に憧れをもったルートヴィッヒ2世が、戦争に敗れた現実から逃避し、独自のファンタジー世界をつくり上げたのが、「ノイシュバンシュタイン城」だと言えます。

この城は、バイエルン国王ルートヴィッヒ2世が、自分の中世への憧れを具現化する城を造ろうと、中世騎士の城をイメージし贅の限りを尽くして建てられた神秘的でメルヘンチックな城。また現実から逃避するために、ファンタジーなお城が造られました。それがノイシュヴァンシュタイン城です。ワーグナーの楽劇の世界に大変な興味を示し、城内はワーグナーのオペラをモチーフにした壁絵で飾られています。残念ながら城内の撮影はできません。この城の見学は、予約できないため、1時間前には来て手続きをしなければ、入城できないとのことでした。


このおとぎ話に出てくるような城の設計(グランドデザイン)を指示されたのは、建築技術者でなく、当時宮廷劇場の舞台装置や美術を担当していた画家で、ことからして絵のように美しい城ができたと思われます。

ここはオーストリアとの国境の近く、バイエルン州フュッセンの南方にあり、ドイツ・ロマンティック街道の終着に位置しています。ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなっていて映画「チキチキバンバン」のロケにも使用された人気の観光スポットで、フランクフルトから日帰りで訪れる観光客も多いとのこと。
この城からは、ルートヴィッヒ2世が子供時代を過ごしたホーエンシュバンガウ城(父マクシミリアン2世が築城)が美しい湖とともに眺められます。

シュヴァンガウは、ロマンティック街道の南端に位置する小さな村で、はるか下流には周りに牧草地が広がるのどかなバイエルンの牧歌的な農村風景が広がっています。

麓から城までは、坂道を徒歩で登って行けますが、馬車やバス(いずれも有料)を利用する方法もあります。


この城は1869年に建設に着手し、17年後の1886年に未完成部分を多く残したまま中止されましたが、居住できる程度にはできあがったそうです。また、この他にも城の建設を始め、ノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大な城や宮殿を建設する考えを持っていたと言うから驚き。
これらの建設費用は王室費が充てられていたため公債を乱発するなど、借金を積み重ねていたそうです。このため、危機感を募らせていたバイエルン政府は、ルートヴィヒ2世を精神病の鑑定にかけ、ベルク城に軟禁したました。ところがその翌日、精神病の宣告をした主治医と散歩に出かけ、シュタルンベルク湖畔で水死体となって見されたとのこと。
ノイシュヴァンシュタインという名の、「ノイ (Neu)」は「新しい」の意味で、シュヴァンガウは「白鳥河口」の意味があるそうです。
芸術を愛し、中世の騎士伝説に憧れをもったルートヴィッヒ2世が、戦争に敗れた現実から逃避し、独自のファンタジー世界をつくり上げたのが、「ノイシュバンシュタイン城」だと言えます。
ドイツ南部に位置し城壁に囲まれたローテンブルグという街は、10世紀の後半には集落が構成されたといわれ、12世紀には最初の城壁が構築されており中世の街並みがそのまま残る大変魅力のある街です。

この街の城壁には、さまざまな門塔が築いてあり、古来より街の出入りが厳しくチェックされていたようです。

この建物は、その中心部にあるマルクト広場の市庁舎です。

その市庁舎の塔に上ると街が展望できます。

螺旋階段を上がりきったところに吹きさらしの狭い展望所があり一周できます(高所に弱い方は無理かも)。見下ろすと真下にマルクト広場が、遠くに城壁外が遠望できます。

街を取り囲む城壁は約3、4キロにも及ぶそうです。

その城壁の上には屋根が付いていて、当時の防衛監視兵などが歩いた歩道は、石畳でしっかり整備されています。

城壁には、約10m間隔に監視窓が設けてあります。その監視窓からは弓や鉄砲などで敵を迎えたのでしょう。握り拳ができるように、また銃を支える横木なども取り付けてあり、さまざまな工夫のあとが見られます。

この城壁の歩道から、先ほど上った市庁舎の塔が遠くに見えます。

ところでこの街に夜な夜なやって来る不思議な身なりの男がいます。マントを着て手には西洋槍を持っています。近づいて見ると観光客の皆さんに何やら町の案内をしているようです。
飫肥城下町で例えれば、夜の観光ガイドボランティアということでしょうか。

これは、マルク広場の市議宴会場にある有名な仕掛け時計です。上の時計は日を示し、下段が時間を表示します。午後10時に時計の左右の窓が開くと、明かりが灯りカラクリが始まりました。

左には将軍ティリーの仕掛け人形、そして右側には ローテンブルクのヌッシュ市長が登場、 将軍がラッパを吹くとそれに応えて老市長は手にした大杯を口に傾け続けます。「マイスタートゥルンク(一気飲み)の仕掛け時計」いわれます。
これは、1618~1148年の30年戦争でブロテスタント(新教)側についたローテンブルクは、カトリック(旧教)側皇帝軍の将軍率いる大軍に包囲され陥落します。町は破壊され議員たちは首をはねられる運命となっていました。そこで老市長ヌッシュは、将軍ティリーの申し出を請けて立ち、3リットルものワインを一気に飲み干して街を助けることができました・・・・・と言う有名な史実に基づいて仕掛けられたものだそうです。街を救った老市長はその後三日間眠り続けたそうですが、八十歳まで長生きしたとのことです。
このカラクリ時計は、11,12,13,14,15,21,22時の1日7回動くようです。
また、ローデンブルグの名物のお菓子と言えば「シュネーバル(雪の玉)」です。英語ではスノーボールとでも言うのでしょうか。もともとこのお菓子は中世まで遡り、結婚式やお祭りなどに食べられる特別なお菓子だったそうです。 このパンは、「シュネーバーレンアイセン」と呼ばれる丸い特別な鉄の容器の中に生地を入れて揚げた後、冷めてから粉砂糖をふりかけるのがオリジナルシュネーバルだそうです。

現在はチョコレートやアーモンドなどともコラボして、種類も豊富にあるようです。ちょっとかさばるが、日もちがするのでお土産にもなります。但し、スーツケースなどに入れる場合は丸い筒状になっている専用の容器に入れなければ、直ぐに崩れてしまう心配があります。

ローテンブルクの街は、17世紀に起こった30年戦争を境に衰退したようです。また第2次世界大戦でも爆撃などで街の多くが戦火に会いました。その後日本など世界からの多額の寄付や援助により以前のような中世の街並みを取り戻したとのことです。この街を訪れると、通りや広場など全てに石が敷き詰められ、建物などの風情からあたかも中世の西洋に迷い込んだようです。
日本からの観光客も多く、長年住み着いている日本人もいます。現在ではロマンチック街道の中では特に人気の高い街だそうです。このように保存されている街並みを見て街の皆さんの保存に対する熱意や想いを感じ取ることができました。

この街の城壁には、さまざまな門塔が築いてあり、古来より街の出入りが厳しくチェックされていたようです。


この建物は、その中心部にあるマルクト広場の市庁舎です。

その市庁舎の塔に上ると街が展望できます。

螺旋階段を上がりきったところに吹きさらしの狭い展望所があり一周できます(高所に弱い方は無理かも)。見下ろすと真下にマルクト広場が、遠くに城壁外が遠望できます。


街を取り囲む城壁は約3、4キロにも及ぶそうです。

その城壁の上には屋根が付いていて、当時の防衛監視兵などが歩いた歩道は、石畳でしっかり整備されています。


城壁には、約10m間隔に監視窓が設けてあります。その監視窓からは弓や鉄砲などで敵を迎えたのでしょう。握り拳ができるように、また銃を支える横木なども取り付けてあり、さまざまな工夫のあとが見られます。


この城壁の歩道から、先ほど上った市庁舎の塔が遠くに見えます。

ところでこの街に夜な夜なやって来る不思議な身なりの男がいます。マントを着て手には西洋槍を持っています。近づいて見ると観光客の皆さんに何やら町の案内をしているようです。
飫肥城下町で例えれば、夜の観光ガイドボランティアということでしょうか。


これは、マルク広場の市議宴会場にある有名な仕掛け時計です。上の時計は日を示し、下段が時間を表示します。午後10時に時計の左右の窓が開くと、明かりが灯りカラクリが始まりました。

左には将軍ティリーの仕掛け人形、そして右側には ローテンブルクのヌッシュ市長が登場、 将軍がラッパを吹くとそれに応えて老市長は手にした大杯を口に傾け続けます。「マイスタートゥルンク(一気飲み)の仕掛け時計」いわれます。
これは、1618~1148年の30年戦争でブロテスタント(新教)側についたローテンブルクは、カトリック(旧教)側皇帝軍の将軍率いる大軍に包囲され陥落します。町は破壊され議員たちは首をはねられる運命となっていました。そこで老市長ヌッシュは、将軍ティリーの申し出を請けて立ち、3リットルものワインを一気に飲み干して街を助けることができました・・・・・と言う有名な史実に基づいて仕掛けられたものだそうです。街を救った老市長はその後三日間眠り続けたそうですが、八十歳まで長生きしたとのことです。
このカラクリ時計は、11,12,13,14,15,21,22時の1日7回動くようです。
また、ローデンブルグの名物のお菓子と言えば「シュネーバル(雪の玉)」です。英語ではスノーボールとでも言うのでしょうか。もともとこのお菓子は中世まで遡り、結婚式やお祭りなどに食べられる特別なお菓子だったそうです。 このパンは、「シュネーバーレンアイセン」と呼ばれる丸い特別な鉄の容器の中に生地を入れて揚げた後、冷めてから粉砂糖をふりかけるのがオリジナルシュネーバルだそうです。


現在はチョコレートやアーモンドなどともコラボして、種類も豊富にあるようです。ちょっとかさばるが、日もちがするのでお土産にもなります。但し、スーツケースなどに入れる場合は丸い筒状になっている専用の容器に入れなければ、直ぐに崩れてしまう心配があります。

ローテンブルクの街は、17世紀に起こった30年戦争を境に衰退したようです。また第2次世界大戦でも爆撃などで街の多くが戦火に会いました。その後日本など世界からの多額の寄付や援助により以前のような中世の街並みを取り戻したとのことです。この街を訪れると、通りや広場など全てに石が敷き詰められ、建物などの風情からあたかも中世の西洋に迷い込んだようです。
日本からの観光客も多く、長年住み着いている日本人もいます。現在ではロマンチック街道の中では特に人気の高い街だそうです。このように保存されている街並みを見て街の皆さんの保存に対する熱意や想いを感じ取ることができました。
ヨーロッパの古い城や寺院などを巡ってきました。
最初に訪れたのは、はるか古代より交易の水路として利用されてきたライン河をクルーズによって下り、河畔に数多く残る当時徴税のために築かれた城塞などです。

乗船したのは、リュデスハイムという小さな町。すぐに左岸にあるビンゲンという町のシンボルとなっているクロップ城が最初に現れました。

城が築かれたのは、1282年とのことですが、その後戦争で爆破されたようです。1879年に再建され、現在は町役場と郷土史博物館として利用されているそうです。
間もなく、対岸にエーレンフェルスの城跡が見えます。

マインツ大司教が1220年に築城したとされ、対岸の河中にあるねずみの塔とともに長年マインツ大司教の徴税用の城となっていたようです。しかしドイツの混迷の時代と言われる三十年戦争以降は包囲と占領が繰り返えされ、1689年にはフランス軍により破壊されたとのこと。現在はヘッセン州が管理しているそうです。
こちらが、悪徳領主を食い殺したと言われる伝説のねずみの塔。

この後船は、左岸にライヒェンシュタイン城やハイムブルグ城を眺めながら下っていきます。

ライヒェンシュタイン城は盗賊団の棲家になったことがあるようです。ハイムブルグ城は、ニーダーライムバッハ町のすぐ上の高台に建っており、ライン川から見ると町と一体化しているように見えます。
その下流のネッカー川沿いにホーネック城が見えてきます。20世紀半ばまでドイツ騎士団の城でしたが、現在はドイツ騎士団が開墾したルーマニアのズィーベンビュルゲン救済協会の所有で老人ホームやルーマニア郷土資料館になっているそうです。

シュタ―ルエック城は、1689年にフランス軍によって爆破されましたが、1925年から27年にかけてその古城は元どおりに修復されました。現在、城の一部がユースホステルとして利用されとても人気が高いとのこと。、

やがて河の右岸にグーテンフェルス城が見えきますが、その前の中洲に建てられたプファルツ城が目の前を通り過ぎていきます。
グーテンフェルス城は、当初はカウプ城と呼ばれ、13世紀初頭ごろに神聖ローマ帝国の命令で築かれたといわれている。その後、カウプの町とグーテンフェルス城で、ライン川を通過する船に通行税を課していたが、より厳しく通行税を取り立てるために、カウプの町の目の前の中洲に、1326年、五角形の塔の建築したようです。

このプファルツ城は、もともと戦うためではなく、徴税のための城であったため、その後も戦闘は経験せず、徴税基地としてのみ機能していた。
1866年の普墺戦争以後は、ライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用されたそうです。
その対岸オーバーヴェーゼルの山上には、シェーンブルク城がそびえています。この城は12世紀に建築された後、帝国の公使に与えられ、17世紀にフランスのルイ14世の軍に破壊されるまでその所有が続いたそうです。

シェーンブルクとは、美しい城という意味だそうです。現在は、古城ホテルになっているようです
このようにドイツ各地には、様々なに城塞が見られますが、中世ローマ帝国の中心地だった、ライン河畔は、特に数多くの城塞が残っておるようです。
そうこうしている内に、ローレライの曲が響いてきました。着地地ザンクト・ゴアが近づいたようです。

この崖が、ハイネの詩にジルヒャーが作曲した有名な曲ローレライの大岩です。
ここは、河が狭くなり浅くて流れも急で多くの舟が座礁したそうです。このためこのような妖女伝説が出来上がったといわれています。
最後に、花木の名前は分かりませんが、上陸したザンクト・ゴアの町に咲いていたきれいな花。

そして町で見かけた可愛い赤ちゃん。私の孫と生まれが同じ位なので思わずパチッ!

この後、中世の風情を残す城塞都市「ローデンブルグ」を訪れました。
最初に訪れたのは、はるか古代より交易の水路として利用されてきたライン河をクルーズによって下り、河畔に数多く残る当時徴税のために築かれた城塞などです。


乗船したのは、リュデスハイムという小さな町。すぐに左岸にあるビンゲンという町のシンボルとなっているクロップ城が最初に現れました。

城が築かれたのは、1282年とのことですが、その後戦争で爆破されたようです。1879年に再建され、現在は町役場と郷土史博物館として利用されているそうです。
間もなく、対岸にエーレンフェルスの城跡が見えます。

マインツ大司教が1220年に築城したとされ、対岸の河中にあるねずみの塔とともに長年マインツ大司教の徴税用の城となっていたようです。しかしドイツの混迷の時代と言われる三十年戦争以降は包囲と占領が繰り返えされ、1689年にはフランス軍により破壊されたとのこと。現在はヘッセン州が管理しているそうです。
こちらが、悪徳領主を食い殺したと言われる伝説のねずみの塔。

この後船は、左岸にライヒェンシュタイン城やハイムブルグ城を眺めながら下っていきます。


ライヒェンシュタイン城は盗賊団の棲家になったことがあるようです。ハイムブルグ城は、ニーダーライムバッハ町のすぐ上の高台に建っており、ライン川から見ると町と一体化しているように見えます。
その下流のネッカー川沿いにホーネック城が見えてきます。20世紀半ばまでドイツ騎士団の城でしたが、現在はドイツ騎士団が開墾したルーマニアのズィーベンビュルゲン救済協会の所有で老人ホームやルーマニア郷土資料館になっているそうです。

シュタ―ルエック城は、1689年にフランス軍によって爆破されましたが、1925年から27年にかけてその古城は元どおりに修復されました。現在、城の一部がユースホステルとして利用されとても人気が高いとのこと。、

やがて河の右岸にグーテンフェルス城が見えきますが、その前の中洲に建てられたプファルツ城が目の前を通り過ぎていきます。
グーテンフェルス城は、当初はカウプ城と呼ばれ、13世紀初頭ごろに神聖ローマ帝国の命令で築かれたといわれている。その後、カウプの町とグーテンフェルス城で、ライン川を通過する船に通行税を課していたが、より厳しく通行税を取り立てるために、カウプの町の目の前の中洲に、1326年、五角形の塔の建築したようです。

このプファルツ城は、もともと戦うためではなく、徴税のための城であったため、その後も戦闘は経験せず、徴税基地としてのみ機能していた。
1866年の普墺戦争以後は、ライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用されたそうです。
その対岸オーバーヴェーゼルの山上には、シェーンブルク城がそびえています。この城は12世紀に建築された後、帝国の公使に与えられ、17世紀にフランスのルイ14世の軍に破壊されるまでその所有が続いたそうです。

シェーンブルクとは、美しい城という意味だそうです。現在は、古城ホテルになっているようです
このようにドイツ各地には、様々なに城塞が見られますが、中世ローマ帝国の中心地だった、ライン河畔は、特に数多くの城塞が残っておるようです。
そうこうしている内に、ローレライの曲が響いてきました。着地地ザンクト・ゴアが近づいたようです。

この崖が、ハイネの詩にジルヒャーが作曲した有名な曲ローレライの大岩です。
ここは、河が狭くなり浅くて流れも急で多くの舟が座礁したそうです。このためこのような妖女伝説が出来上がったといわれています。
最後に、花木の名前は分かりませんが、上陸したザンクト・ゴアの町に咲いていたきれいな花。

そして町で見かけた可愛い赤ちゃん。私の孫と生まれが同じ位なので思わずパチッ!

この後、中世の風情を残す城塞都市「ローデンブルグ」を訪れました。
飫肥城でMRT放送の取材がありました。

この取材は、日南市を紹介する番組のためです。
今回は飫肥城の小村記念館・藩校振徳堂・旧伊東伝左衛門家の紹介と、飫肥城下町『食べあるき・町あるき』の紹介をするためです。
私達飫肥城下町保存会もしっかり協力させていただきました。
飫肥城の魅力と「食べあるき・町あるき」マップの魅力を多くの人に知っていただけるとうれしいです。
谷口市長と新サンフレッシュレディーが取材を受けるために小村記念館に立ち寄られたところです。
市長は、「泰平踊」の衣装を着用しての取材だったようです。
サンフレッシュレディーもきょうが初めての出番だと言っておられました。これから1年、日南市の
あらゆる場面で活躍されることになっています。
番組は、5月3日(木)18:55分から5分間で、毎週あるそうです。MRTラジオでも、同じ日の14:40分から
5分間放送されます。
飫肥城に関しては、翌週の5月10日も放送される予定になっています。
日南市のすばらしいところがこれから毎週放送されます。皆さんぜひご覧になってください。

この取材は、日南市を紹介する番組のためです。
今回は飫肥城の小村記念館・藩校振徳堂・旧伊東伝左衛門家の紹介と、飫肥城下町『食べあるき・町あるき』の紹介をするためです。
私達飫肥城下町保存会もしっかり協力させていただきました。
飫肥城の魅力と「食べあるき・町あるき」マップの魅力を多くの人に知っていただけるとうれしいです。
谷口市長と新サンフレッシュレディーが取材を受けるために小村記念館に立ち寄られたところです。
市長は、「泰平踊」の衣装を着用しての取材だったようです。
サンフレッシュレディーもきょうが初めての出番だと言っておられました。これから1年、日南市の
あらゆる場面で活躍されることになっています。
番組は、5月3日(木)18:55分から5分間で、毎週あるそうです。MRTラジオでも、同じ日の14:40分から
5分間放送されます。
飫肥城に関しては、翌週の5月10日も放送される予定になっています。
日南市のすばらしいところがこれから毎週放送されます。皆さんぜひご覧になってください。
obijyoAyumi
小村記念館の庭にオオデマリの花が咲き始めました。とってもきれいですよ。他にもつつじの花など飫肥城は春まっさかりですヨ。
04-17 12:27
飫肥小学校の第139回入学式があり、参加させていただきました。


3月に行われた卒業式同様雨の中の入学式となりましたが、1年生のみなさんは元気いっぱい入場してきました。
みな小さくてかわいらしい服を着てはればれとした顔をしていました。


校長先生はあいさつのなかで1年生が守ってほしいことやわからないことなどは上級生によく聞いて楽しい
学校生活を送って下さいと話されていました。
また、来賓を代表して倉岡副市長のお話があり、子供たちはいっしょうけんめい聞いていました。

そのあと、6年生の代表が1年生を歓迎する話をしました。
明日から1年生にとって上級生はともに学校に通ったり、わからないことを教えてくれる大事な存在になるはずです。
歓迎のことばはとても頼もしく思えました。

最後に新入生の保護者の代表が、先生方にこれから子供たちのことをよろしくお願いしますといった
趣旨の話をされていました。
子供たちを預ける保護者の方々も希望と不安が入り混じった気持ちだと思います。
飫肥小は飫肥城のの本丸跡に建設されているめずらしい小学校です。観光客の皆さんからも驚きと称賛の声を
いただいています。
私たちは毎日この子供たちの学校生活を見ながら仕事をしています。毎日子供たちの楽しそうな声を聞きながら
仕事をしています。
私たちは、子供たちがこのすばらしい環境の中ですこやかに育ってくれることをいつも望んでいます。
そしていつか、小村寿太郎侯ような人材がでてくることを楽しみにしています。



3月に行われた卒業式同様雨の中の入学式となりましたが、1年生のみなさんは元気いっぱい入場してきました。
みな小さくてかわいらしい服を着てはればれとした顔をしていました。



校長先生はあいさつのなかで1年生が守ってほしいことやわからないことなどは上級生によく聞いて楽しい
学校生活を送って下さいと話されていました。
また、来賓を代表して倉岡副市長のお話があり、子供たちはいっしょうけんめい聞いていました。


そのあと、6年生の代表が1年生を歓迎する話をしました。
明日から1年生にとって上級生はともに学校に通ったり、わからないことを教えてくれる大事な存在になるはずです。
歓迎のことばはとても頼もしく思えました。

最後に新入生の保護者の代表が、先生方にこれから子供たちのことをよろしくお願いしますといった
趣旨の話をされていました。
子供たちを預ける保護者の方々も希望と不安が入り混じった気持ちだと思います。
飫肥小は飫肥城のの本丸跡に建設されているめずらしい小学校です。観光客の皆さんからも驚きと称賛の声を
いただいています。
私たちは毎日この子供たちの学校生活を見ながら仕事をしています。毎日子供たちの楽しそうな声を聞きながら
仕事をしています。
私たちは、子供たちがこのすばらしい環境の中ですこやかに育ってくれることをいつも望んでいます。
そしていつか、小村寿太郎侯ような人材がでてくることを楽しみにしています。
大きくなりすぎて景観を悪くしている木の枝の伐採作業が行われました。



朝早くから造園業者の方がユニック車を使って伐採作業をされました。
高所での作業ですが、さすがに専門の方は手際よく伐採をされていました。

大手門から入ったところに栴檀の木がありますが、最近は枝が枯れて風の強い日は折れて落ちてくることもあり、
お客様に当たったらいけないので階段側を少し切り落としました。左が伐採前、右が伐採後です。


小村記念館の上の横馬場通りには、大きな木が道路を覆うようにでてきており、台風などでいつか倒れる
のではないかと心配していましたが、今回の伐採作業で道路に出てきていた部分を切り落としました。
また、城内に植えてある木が堀を超えて道路に出てきていた部分もきれいに枝を切り、道路から空が見えて
すっきりとしました。
毎朝、横馬場の清掃をしていますが、けっこう大きな枝が落ちていて通りがかりの人に当たったら大変だ
といつも思っていましたが、きれいに選定されて安心して歩く事ができる様になりました。
今は枝を落とした跡が目立ちますが、やがてきれいになると思います。

伊東伝左衛門家に生えている木は、枝が道路に出てきて、木の葉が近隣の方の敷地に落ちてしまい、
何とかしてほしいといわれていましたが、今回の作業で道路にでていた枝を切りました。
これで少しはご近所の敷地へ葉が落ちるのも減るかと思います。
私たちは、日頃から飫肥城の建物や樹木・草花等の状態をチェックし、飫肥城の施設が最良の状態に
保たれるようにしています。
今後も、しっかりと管理をし、お客様が気持ちよく観光していただけるように努めていきたいと考えています。




朝早くから造園業者の方がユニック車を使って伐採作業をされました。
高所での作業ですが、さすがに専門の方は手際よく伐採をされていました。


大手門から入ったところに栴檀の木がありますが、最近は枝が枯れて風の強い日は折れて落ちてくることもあり、
お客様に当たったらいけないので階段側を少し切り落としました。左が伐採前、右が伐採後です。



小村記念館の上の横馬場通りには、大きな木が道路を覆うようにでてきており、台風などでいつか倒れる
のではないかと心配していましたが、今回の伐採作業で道路に出てきていた部分を切り落としました。
また、城内に植えてある木が堀を超えて道路に出てきていた部分もきれいに枝を切り、道路から空が見えて
すっきりとしました。
毎朝、横馬場の清掃をしていますが、けっこう大きな枝が落ちていて通りがかりの人に当たったら大変だ
といつも思っていましたが、きれいに選定されて安心して歩く事ができる様になりました。
今は枝を落とした跡が目立ちますが、やがてきれいになると思います。


伊東伝左衛門家に生えている木は、枝が道路に出てきて、木の葉が近隣の方の敷地に落ちてしまい、
何とかしてほしいといわれていましたが、今回の作業で道路にでていた枝を切りました。
これで少しはご近所の敷地へ葉が落ちるのも減るかと思います。
私たちは、日頃から飫肥城の建物や樹木・草花等の状態をチェックし、飫肥城の施設が最良の状態に
保たれるようにしています。
今後も、しっかりと管理をし、お客様が気持ちよく観光していただけるように努めていきたいと考えています。
飫肥城歴史資料館の鬼瓦が、新しく付け替えられました。

実は、歴史資料館では、昨年7月29日の早朝に鬼瓦の一部が落下していました。詳しくはこちら「危なかった!でも何故?」をご覧ください。

市が業者に委託して調査した結果、築後長年の間に劣化してその一部が壊れ落ちてきたものと判断され早急な取り換えが必要ということになり、今回の作業となったものです。

作業は、観光客等に支障無いように慎重に行われました。

取り外された鬼瓦の一部です。伊東家の家紋である表紋の「庵木瓜紋」と裏紋の「月星九曜紋(十曜の紋)」が鋳れてあります。
春の観光シーズンを迎控え、多くの客様がお見えになる前に作業を完了して頂いた市の対応に感謝したいと思います。今後も安心して由緒施設等の見学できるように、市と連携して早急な対応に心掛けて参ります。

実は、歴史資料館では、昨年7月29日の早朝に鬼瓦の一部が落下していました。詳しくはこちら「危なかった!でも何故?」をご覧ください。


市が業者に委託して調査した結果、築後長年の間に劣化してその一部が壊れ落ちてきたものと判断され早急な取り換えが必要ということになり、今回の作業となったものです。


作業は、観光客等に支障無いように慎重に行われました。


取り外された鬼瓦の一部です。伊東家の家紋である表紋の「庵木瓜紋」と裏紋の「月星九曜紋(十曜の紋)」が鋳れてあります。
春の観光シーズンを迎控え、多くの客様がお見えになる前に作業を完了して頂いた市の対応に感謝したいと思います。今後も安心して由緒施設等の見学できるように、市と連携して早急な対応に心掛けて参ります。
大手門から入城して、最初に迎えてくれる桜です。

一方こちらは、旧本丸跡に上る桜です。

今真っ盛りの桜は「ソメイヨシノ」、既に新緑になっているのは「山桜」、最も早く咲く「日南寒咲き一号」、「河津桜」などの早咲きの桜です。
城内周辺には、一月末から早咲きの桜が咲きはじめ、遅い「八重桜」、「提灯桜」など四月下旬まで咲き続けます。今年の早咲き桜が咲きはじめたのは、例年より遅く二月になってからでした。(昨年は1月19日開花)
しかし、城内の「ソメイヨシノ」は、マスコミで報道された高知県より早く3月20以前に開花していました。

これからも、飫肥城周辺の花木管理等に力を注ぎ、いつでも四季折々の花が客さんをお迎えできるようしたいと考えます。

一方こちらは、旧本丸跡に上る桜です。

今真っ盛りの桜は「ソメイヨシノ」、既に新緑になっているのは「山桜」、最も早く咲く「日南寒咲き一号」、「河津桜」などの早咲きの桜です。
城内周辺には、一月末から早咲きの桜が咲きはじめ、遅い「八重桜」、「提灯桜」など四月下旬まで咲き続けます。今年の早咲き桜が咲きはじめたのは、例年より遅く二月になってからでした。(昨年は1月19日開花)
しかし、城内の「ソメイヨシノ」は、マスコミで報道された高知県より早く3月20以前に開花していました。


これからも、飫肥城周辺の花木管理等に力を注ぎ、いつでも四季折々の花が客さんをお迎えできるようしたいと考えます。
飫肥城内にある飫肥小学校のグランドに芝生が張られました。

3月中頃に下地の新たな土が運び込まれ、張り付けの準備が行われました。

その後、植付けされる芝生が搬入され、きれいに張られていきます。
そして、春休みで子ども達がいない間に出来上がり。

飫肥小学校はシラス台地に建てられていて、グランドにはこれまで芝が張られていないため、冬場の風の強い日は砂埃が舞い上がり城内が真っ白になったこともあります。
運動会でもご覧のように砂ばかりの運動場で行われていました。それでも子どもたちは、真っ白になって元気よく走りまわったり、泰平踊なども披露してくれました。

飫肥小学校の校長先生をはじめ関係者の念願だったグランドの芝生が、漸く整備されました。

今年の一学期からは、芝生が敷き詰められきれいになったグランドで、もっともっと元気に駆けまわることでしょう。

3月中頃に下地の新たな土が運び込まれ、張り付けの準備が行われました。


その後、植付けされる芝生が搬入され、きれいに張られていきます。


そして、春休みで子ども達がいない間に出来上がり。

飫肥小学校はシラス台地に建てられていて、グランドにはこれまで芝が張られていないため、冬場の風の強い日は砂埃が舞い上がり城内が真っ白になったこともあります。

運動会でもご覧のように砂ばかりの運動場で行われていました。それでも子どもたちは、真っ白になって元気よく走りまわったり、泰平踊なども披露してくれました。


飫肥小学校の校長先生をはじめ関係者の念願だったグランドの芝生が、漸く整備されました。

今年の一学期からは、芝生が敷き詰められきれいになったグランドで、もっともっと元気に駆けまわることでしょう。
今朝は、強い雨風が飫肥の城下町で吹き荒れました。

大手門周辺は、満開になった桜の花弁や木の葉が、通り一面に落ちていました。

駐車場にある口蹄疫の防除マットも捲れてどうしようもありません。 観光客が足を躓いたりするなど危険なため、対応策を関係者にお願いしました。

また、城下町にある桜も漸く満開になりましたが、鯉の遊泳している水路の水面も花弁だらけで鯉が姿を現しませせん。

レンタサイクル置場のテントも大きく揺れていました。この日も県外から「食べあるき・町あるき」ツアーに多くの観光客がお見えになりましたが、強風にあおられながら町の散策をされていました。

それでも午後から天候も回復し、多くの皆さんが春の日差しを受け、桜吹雪の舞う城下町を楽しまれたようです。

4月には、多くのツアー予約があり、街並みも賑わいそうです。その後のゴールデンウィークまで天候に恵まれて欲しいものです。


大手門周辺は、満開になった桜の花弁や木の葉が、通り一面に落ちていました。


駐車場にある口蹄疫の防除マットも捲れてどうしようもありません。 観光客が足を躓いたりするなど危険なため、対応策を関係者にお願いしました。


また、城下町にある桜も漸く満開になりましたが、鯉の遊泳している水路の水面も花弁だらけで鯉が姿を現しませせん。


レンタサイクル置場のテントも大きく揺れていました。この日も県外から「食べあるき・町あるき」ツアーに多くの観光客がお見えになりましたが、強風にあおられながら町の散策をされていました。

それでも午後から天候も回復し、多くの皆さんが春の日差しを受け、桜吹雪の舞う城下町を楽しまれたようです。

4月には、多くのツアー予約があり、街並みも賑わいそうです。その後のゴールデンウィークまで天候に恵まれて欲しいものです。