晴天に恵まれた「つわぶきハーフマラソン&車いすマラソン大会」、参加された大勢の選手が、飫肥城下町を元気に駆け抜けて行きました。

特にこの方はすごかった、 地下足袋を履いて疾走!

グループで参加されている皆さんは元気が良い。

カップルで参加の方はもっと元気!

飫肥城大手門前交差点で笑顔でハイタッチされた方、とても15キロ以上走って来たと思えない軽やかさ!

大勢の皆さんが、ハイタッチで元気にパワーアップ!


笑顔でポーズをとって頂いたステキな方々。


そして、おっこの方は! 大野副市長、とっても元気です!

さらに忘れてならないのは、車いすの力走!

最後に皆さんを懸命に応援した「飫肥城応援団」!

大会に参加れた選手の皆さん、それを支えて頂いたボランティアや大会を運営された多くの方々、お疲れ様でした。
そして有り難うございました!

特にこの方はすごかった、 地下足袋を履いて疾走!

グループで参加されている皆さんは元気が良い。


カップルで参加の方はもっと元気!


飫肥城大手門前交差点で笑顔でハイタッチされた方、とても15キロ以上走って来たと思えない軽やかさ!

大勢の皆さんが、ハイタッチで元気にパワーアップ!




笑顔でポーズをとって頂いたステキな方々。




そして、おっこの方は! 大野副市長、とっても元気です!

さらに忘れてならないのは、車いすの力走!


最後に皆さんを懸命に応援した「飫肥城応援団」!

大会に参加れた選手の皆さん、それを支えて頂いたボランティアや大会を運営された多くの方々、お疲れ様でした。
そして有り難うございました!
飫肥城復元の最大の功労者、河野礼三郎氏(旧日南市第7代市長)の生誕100周年を記念するシンポジウムが、昨日「かんぽの宿日南」で開催されました。

今日までお世話になった大先輩やご指導を受けた錚々たる方々が、数多く参加されていて、私にとって大変緊張したシンポジウムでした。

また、ご長男もご出席され、ご尊父の想いなどお聞かせいただきました。

シンポジウムを企画し開催して頂いた長友治さんをはじめ関係者の皆さんには、大変お世話になりまして有難うございました。

河野禮三郎氏は、昭和49年(1974年)に市長就任すると政治信念「政治は事業なり」を持って事にあたり、①飫肥城復元事業、②大油津港建設事業、③下水道事業、④区画整理事業などに取り組まれ、歴代市長の中でも特に卓越した手腕を発揮された市長です。
特に私どもと関係のある飫肥城復元事業に関しては、市長就任時に「飫肥城復元促進協力会」を、翌年には募金委員会を発足し、自ら会長となり東奔西走し復元に全力を注ぎ、翌51年には第1期工事として「振徳堂」が落成しました。
更に、52年に九州では初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されると、翌年に2期工事の大手門と松尾の丸が落成。
そしてその年の10月に飫肥城下まつりがスタートして今年で38回目、今や県南を代表するまつりとなりました。
このように河野氏の剛毅果断(ごうきかだん)な強い信念とその後の歴代市長の努力で、飫肥城下町のハード面の整備はほぼ完了しました。

これからは、これらの施設等の整備保存以上に有効活用によるグレードアップが求められます。
そのためにも、地元の地域連携組織「城下町飫肥まちづくり協議会」をはじめ地域再生コーディネーター徳永さんなどとも連携し、飫肥城下町の更なる魅力づくりに取り組んで参ります。

今日までお世話になった大先輩やご指導を受けた錚々たる方々が、数多く参加されていて、私にとって大変緊張したシンポジウムでした。

また、ご長男もご出席され、ご尊父の想いなどお聞かせいただきました。

シンポジウムを企画し開催して頂いた長友治さんをはじめ関係者の皆さんには、大変お世話になりまして有難うございました。


河野禮三郎氏は、昭和49年(1974年)に市長就任すると政治信念「政治は事業なり」を持って事にあたり、①飫肥城復元事業、②大油津港建設事業、③下水道事業、④区画整理事業などに取り組まれ、歴代市長の中でも特に卓越した手腕を発揮された市長です。
特に私どもと関係のある飫肥城復元事業に関しては、市長就任時に「飫肥城復元促進協力会」を、翌年には募金委員会を発足し、自ら会長となり東奔西走し復元に全力を注ぎ、翌51年には第1期工事として「振徳堂」が落成しました。
更に、52年に九州では初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されると、翌年に2期工事の大手門と松尾の丸が落成。
そしてその年の10月に飫肥城下まつりがスタートして今年で38回目、今や県南を代表するまつりとなりました。
このように河野氏の剛毅果断(ごうきかだん)な強い信念とその後の歴代市長の努力で、飫肥城下町のハード面の整備はほぼ完了しました。

これからは、これらの施設等の整備保存以上に有効活用によるグレードアップが求められます。
そのためにも、地元の地域連携組織「城下町飫肥まちづくり協議会」をはじめ地域再生コーディネーター徳永さんなどとも連携し、飫肥城下町の更なる魅力づくりに取り組んで参ります。
11月1日から小村寿太郎侯顕彰展が始まりました。
今年のテーマは、「小村寿太郎の九州視察の旅」。
侯は、明治42年(1909年)7月18日に横浜から地洋丸で出港し、27日まで三菱造船所や三池炭鉱、八幡の製鉄所などを視察しています。

その視察地は、今年世界遺産登録が決定しました。

この視察は、病気で弱っていていた侯の体力を回復させるため、桂総理や青木主治医らの薦めた療養旅行でもありました。
当時日露戦争の戦勝国となっても賠償金を得ることのできなかった我が国は、産業振興による近代化を進め豊かな国づくりを目指していました。そのことを誰よりも思う侯は、産業立国としての発展を見極めるため、視察に踏み切ったのでしょう。

この侯の最後の視察旅行では、侯が可愛がっていた郷土出身の造船技師「桝本卯平」とも会うこともできました。
顕彰展では、このような視察旅行の様子が日ごとに詳しく説明されています。
帰京して侯は、明治政府の最大の懸案であった関税自主権確立に尽力し、2年後に不平等条約の改正を成し11月26日に、56歳で惜しまれながら亡くなります。

この顕彰展は、侯の命日11月26日に合わせ毎年開催されます(期間は11月1日~30日)。
今年のテーマは、「小村寿太郎の九州視察の旅」。
侯は、明治42年(1909年)7月18日に横浜から地洋丸で出港し、27日まで三菱造船所や三池炭鉱、八幡の製鉄所などを視察しています。

その視察地は、今年世界遺産登録が決定しました。


この視察は、病気で弱っていていた侯の体力を回復させるため、桂総理や青木主治医らの薦めた療養旅行でもありました。
当時日露戦争の戦勝国となっても賠償金を得ることのできなかった我が国は、産業振興による近代化を進め豊かな国づくりを目指していました。そのことを誰よりも思う侯は、産業立国としての発展を見極めるため、視察に踏み切ったのでしょう。

この侯の最後の視察旅行では、侯が可愛がっていた郷土出身の造船技師「桝本卯平」とも会うこともできました。
顕彰展では、このような視察旅行の様子が日ごとに詳しく説明されています。
帰京して侯は、明治政府の最大の懸案であった関税自主権確立に尽力し、2年後に不平等条約の改正を成し11月26日に、56歳で惜しまれながら亡くなります。

この顕彰展は、侯の命日11月26日に合わせ毎年開催されます(期間は11月1日~30日)。