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豊後岡城
 日本三大山城に数えられる豊後岡藩中川氏の「岡城」の城内を詳しく見てきました。
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 駐車場になっている場所は、岡藩の総役所の跡で、正面の上部に見えるのは、城内西之丸の石垣です。城を散策するためには、向かって右の方から入城し、左側の近戸門跡の方向から出て来るようになっています。
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 観覧料販売所で入場料(300円)を払うと、巻物になったパンフレットがもらえます。岡城の歴史や城の配置などが描かれていて、記念のお土産にもなります。 
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 観光ガイドの広田さんに、城内の案内をしていただくことになり、竹づえを手に持っていよいよ登城です。この城は堆積した阿蘇溶岩の台地上に築かれていて、左手上には溶結した火山岩の岩肌が剃りたっています。
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 更に進むと、階段の崖側の塀替わりに築いてある上部の部分に「かまぼこ石」と呼ばれる石が、きれいに積んであります。そこから急カーブして上り詰めると大手門跡が見えてきました。
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 大手門跡の石積みは堂々としたもので、入城するものを圧倒します。地面には大手門の開き戸を開けた時の車敷の跡が残っていて往時が偲ばれます。この大手門と対して南東側には一回り小さな古大手門跡がありますが、中川氏が最初にが築いたのがこの大手門だそうです。しかし、日が差し込むと敵に丸見えになり戦いに不利とのことで反対方向にかえたそうです。この指摘をしたのは、熊本城の加藤清正を訪ねる途中に立ち寄ったあの藤堂高虎とされています。
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 そこから、家老屋敷、城代屋敷跡などを通り太鼓櫓跡を入ると三の丸に至ります。ここにある空井戸は、深さ73mもあるそうですが、水を蓄えていないためその用途は抜け穴だとか財宝を隠したなど様々な説があるようです。 
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 そこに隣接する二の丸には、滝廉太郎の銅像が設置してあります。明治24年12歳の時に引越して来て15歳まで竹田で少年時代を過ごしました。この岡城は錬太郎の気に入った遊び場だったそうです。そのことが名曲「荒城の月」誕生のきっかけになっことは皆さんご存知の通り。ちなみにこの銅像を制作したのは同窓の彫塑家「朝倉文夫」だそうです。
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 漸く本丸跡にたどり着きました。現在も本丸には岡城天満神社が祀られていますが、中川家歴代藩主が崇拝してきたそうです
 岡城は、もともと大友氏の分家の志賀貞朝の築いた城です。天正14年(1586)の豊薩戦争では薩摩の島津義弘を大将とする2万5千の大軍が岡城をおそいかかりましたが、わずかの兵で志賀は城を守り抜きました。このことが難攻不落の堅城として世に知れ渡ることになります。
 現在でも、落ちない城と言うことで、「受験にも落ちない」・・・と、この神社には入試の時期には多くの参拝客が、合格祈願に訪れるとのことです。
 本丸東側の石積みで囲まれ一段高くなっている場所は、御金倉跡(写真右)だそうです。 
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 その御金倉跡から臨むと、剃り立つように築かれた石垣の眼下には、白滝川に添って延びる対岸の道路が見えます。
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まさに断崖絶壁に築かれた天空の城という感じです。本丸にある三重櫓跡からは、宮崎県との境に連なる祖母山や傾山などが遠望できます。残念ながらこの日は霞んでいて、臨むことは叶いませんでした。
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 この後、本丸から引返して南西方向に進むと、賄方(まかないかた)跡に出ます。ここには城内で唯一の厠が設けてあります。
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 厠入口には、それぞれ殿方と奥方の表示がされています。
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 更に進むと、城の北側に位置する家老屋敷(覚左ヱ門)跡に着きます。ここの屋敷は床の部分だけが復元され、屋敷の見取が分かるようになっています。
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 こちらは、普請方跡から見た家老屋敷(民部)跡です。
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 そこからは阿蘇山も遠望できます。そしていよいよ近戸門から城外に出ますが、七曲りと言われる急な坂道を下ります。その先にある城の給水にも利用された長池を通り過ぎて駐車場に出ます。
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 今回参加された「九州の小京都飫肥有志の会」の皆さんです。
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 岡城は歴史も古く、源義経を迎えるために元年(1185)に緒方惟栄が築いた山城がその起源とされます。この城が全国的に有名なのは、滝廉太郎が少年時代に過ごし名曲「荒城の月」が生まれたことと、豊薩戦争で、大友方の志賀親次がわずかの兵で島津の大軍を撃退したことです。
 その後、文禄3年(1594)に中川秀成が7万石で移封され、入城後に大規模な修築などをして現在の城郭になりました。
 
 ところで、飫肥の伊東氏も島津氏と1572年木崎原の戦いで大敗し、縁故関係にある大友氏を頼って豊後に亡命します。その後大友氏も耳川の戦で敗れると、伊東氏は四国道後に落ちますが、伊東祐兵は、姫路で秀吉に仕官し各地を従軍します。
 岡城で志賀氏が島津の攻撃に持ちこたえた翌1586年から、秀吉の九州の島津攻めが始り、伊東祐兵はその先導役を務めて日向に入ります。その功績を受け1588年に飫肥の領地を得て伊東家を再興します。以後280年14代にわたり5万1千石の飫肥藩伊東家が、続くことになります。
 
 岡城が飫肥城と同異点は、①江戸時代を通じて藩主が変わらない。②堀として天然の川を利用した。③石垣の石積みがしっかりしている。④産業としての杉が多く植林されている。など 

 今回の研修について昨日反省会があり、懸案となっていた飫肥の歴史的建造物「旧飯田病院」も市に寄贈され修復されることになりました。今後如何のように活用してゆくか「飫肥地域を挙げて今後早急に取組まなければならない。」「これからも飫肥の魅力をもっと発信していこう!」など参加された皆さんの士気もあがっていました。
   
 

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コメント
この記事へのコメント
飯田病院寄付の件
赤レンガ館もそうでしたが、寄付されたとたんに修復だと予算がふってわいて付いたために土建屋の餌食になりました。残念ながら、あの赤レンガ館も元のようにはしてもらえず、安全性だの耐震性だのきれいごとを並べられてズタズタにされました。市議と土建屋のつながりには十分にご注意下さい。もと有った飯田病院とはかけ離れた建物になりさがってしまいます。宮崎唯一の人工運河の堀川さえも業者は埋める目論見を手ぐすね引いていた事をお忘れなく。
歴史的建造物が建ち並ぶ、きれいな町並み飫肥にふさわしい修復を切望しています。守ろうとした市民に申し訳はしないで下さい。
2012/05/18(金) 11:11 | URL | 気をつけてください。 #-[編集]
Re: 飯田病院寄付の件
飯田病院の修復について、ご注意ありがとうございます。
コメントでご指摘頂いたようだと、とっても残念な結果になります。
前車の轍を踏むことなく、飫肥の城下町の風情に合った修復がなされるように、注意して参りたいと思います。
2012/05/18(金) 22:34 | URL | 飫肥城 館長 #-[編集]
修復の事業計画までキチンと見届けて戴きまして、もしものときは、飯田病院の保存で動いて戴いた方々の力をご活用をと、遠く東京からお祈りいたします。                             別名 小村寿太郎奉賛会 会員 48歳 
2012/05/20(日) 10:59 | URL | 気をつけてください。 #-[編集]
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2012/05/19(土) 09:24 | まとめwoネタ速neo
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