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佐敷城跡
  
 加藤清正が薩摩との国境界の守りとして築いた肥後国の南部芦北にある佐敷城を訪れました。花岡山に石垣を巡らした国指定史跡の佐敷城跡を遠くから眺めて、一昨年に訪れ世界遺産(文化遺産)にも登録されている沖縄「勝連城跡(かつれんじょうあと)」を思い浮かべました。「勝連城跡(かつれんじょうあと)」
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 山中の駐車場に車を止め、そこから歩いて本丸を目指します。
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 城跡に近づくと城壁が現れ、しっかりとした石積みで三の丸・二の丸・本丸等の城壁が築かれています。
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 こちらは枡形虎口を備えた追手門跡。
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 そして二の丸を通って本丸東門跡から本丸へ。  
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 本丸からの眺望は素晴らしいものがあり、南東方向佐敷川を挟んで薩摩街道や人吉街道を望むことができます。 現在は、南九州自動車道が街道の上を横切っています。
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 一方南西方面は、国道3号線と並行して走る肥薩おれんじ鉄道が眼下に、はるか向こうには不知火海が遠望できます。
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 更に北側方面には、佐敷太郎越峠の山並みが望めます。薩摩街道の日奈久から水俣までは急峻なの難所といわれた三太郎越え(赤松太郎、佐敷太郎、津奈木太郎)を通らなければならず、その中でも最大の難所が佐敷太郎峠だそうです。幕末の篤姫はどのようにして越えたのか・・・・・もしかしたらここだけは海路を利用したかも知れませんね。
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 佐敷城は、戦国時代中期までは相良氏、その後戦国時代末期には島津氏の勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返されたそうです。その後豊臣秀吉の九州平定に伴い天正16年(1588)に領主となった加藤清正が築城し、関ヶ原の戦後は、清正が肥後一国51万石の領主となり、佐敷城跡は肥後国内の有力支城として整備されたようです。しかし、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、加藤氏に代わって細川氏が入封すると、東麓に佐敷番代屋敷が設けられたそうです。
 標高88mの高所にある城郭は、南北200m、東西100m程度で規模はそれほど広くないが、島津氏に備えるべく薩摩・肥後国境防備のための「境目の城」として枡形虎口を備えた城門や本丸をはじめ二の丸・三の丸など総石垣造で強固に築城されています。 

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