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飫肥城の日々
飫肥城下町の魅力を発信
寿太郎侯の足跡を訪ねて(その2)
 翌26日には横浜港周辺での足跡を訪ねることにしました。最初に訪ねたのが、横浜開港資料館。
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 この場所は、大日本通りと山下通りが交差する角に位置しています。
 正面玄関から入館すると、中庭に根元から枝分かれした大きな木が目につきます。
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 実はこの場所は、安政元年(1854)にペルーが横浜に上陸した場所なのです。ペリーに随行した青年画家ハイネが描いたものですが、ここに描かれている水神社の祠の側の大木がこの木(玉楠)なのだそうです。
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 ところが、関東大震災の火災で上の方が燃えてしまったとのこと。しかし残った根から脇芽が出てきたのだそうです。歴史的な事件を見ていたこの玉楠の木の側にイギリス領事館が建設されましたが、昭和47年に廃止されました。その後同敷地内に開港資料館が昭和56年にオープンしたとのこと。
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 また、ペリー上陸当時に江戸幕府はここに応接所を急造し、そこで日米和親条約が締結されたのだそうです。小村寿太郎はその翌年9月26日に飫肥で誕生します。
 資料館と隣接して横浜応接所の跡には横浜県庁が建設されています。また近くには横浜開港50周年を記念し、市民の寄付金により大正6年(1917)に創建された「横浜市開港記念会館」があり、当時は「開港記念横浜会館]という名称だったそうです。こちらの時計塔は36mあり、関東大震災の倒壊を免れ残ったもので、「ジャックの塔」の愛称で呼ばれています。
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 次に、小村が明治8年(1875)に第一回文部省留学生としてハーバード大学に入学するため出港した波止場を見に行きました。
 当時「象の鼻」と呼ばれていた東波止場ですが、弓なりに湾曲した形に築造されており、その形状から象の鼻と呼ばれるようになったそうです。波止場外の大型船に向かうため小船に乗った場所と思われるところには、桟橋が築かれていて港内クルーズ船が停泊していました。
 明治38年(1905)の日露講和会議に全権大使として渡米する時は、既に東波止場の先端に大さん橋が築造され、そこから出港したと考えられます。
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 その後小村が、ポーツマス出港前日に宿泊した「横浜グランドホテル」。
 明治3年(1870)に、海岸通20番地、英国公使館跡地に開業され、明治22年(1889)には室数200となり横浜を代表するホテルとなったが関東大震災により焼失したそうです。
 その跡地は「横浜人形の家」の建物になっていました。
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 その後、近くに「横浜ニューグランドホテル」が完成地し、グランドホテルの再建は断念されたようです。
 そのニューグランドホテルは、昭和2年(1927)に開業をはじめ現在に至っています。このホテルにはチャーリー・チャップリン、やダグラス・マッカーサーなども宿泊しているようです。
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 なお、この海岸通りの右側は関東大震災後に埋め立てられ、現在は山下公園になっています。当時この通りの右手一帯には、海が広がっていたようです。
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 続いて、小村が海外に出向くときに利用した旧横浜駅の跡。日本初の鉄道路線として明治5年に開通し、新橋駅との間を走りました。写真にある弁天橋を渡った左側一帯が旧横浜駅。
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 現在、大江橋の上には鉄橋が架かっていて、その上がJR根岸線の桜木町駅になっています。
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 その桜木町駅近くに鉄道発祥の地を記念した記念碑が建っています。
 またその向かい側にある地下道入り口の壁には、「横浜駅駅長室の跡」と記した小さな石のプレート・・・・・あまりにも小さくプレートを見つけるのに一苦労しました。どうしても探し出すことができず、結局駅員さんに教えていただきました。
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 小村寿太郎侯が海外へ出入国する度に滞在した横浜港。彼は何を期待してここから発ちどのような思いで帰国したのか・・・・・ハーバード大学入学、外国公使として赴任、ポーツマス講和会議等々、様々な苦悩と葛藤を経験し、その度にグローバルな世界観が養われ、晩年に不平等条約の改正という偉業に結実したのではないか。それを支えたのが、国家国民のためという思いと信条とした「誠」の文字と「正直」の2文字だということでしょう。
 今、このような外交官や政治化を我が国は必要としているのではないか。
 
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