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 小倉処平が加療したが「記念堂」落成式行事が終了した後、處平が自刃した最後の地(高畑山中腹)を訪ねることにしました。
 そこで落成式に参加されていた地元の関係者に、登り口まで案内頂きました。
 その上り口は、国道10号線と日豊本線を横切った三足という集落の山手にあります。
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 集落の中を横切り、少し上った屋敷横にある狭い山道らしきところが上り口です。北川町で良く見かける「明治維新 西南の役 終結の地」の幟が2本立っています。側には、登山用の杖も数本準備されてます。
 そこから足場の悪い山道を登って行きます。約20~30分ほど上った中腹に、漸く石碑が見えてきました。
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 そして、漸くその地にたどりつきました。
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 小倉処平は、川坂の神田伊助氏宅で加療中に西郷の可愛岳突囲を知り、急きょ地元の若者2人にカゴをつくってもらい西郷の後を追っそうですが、官軍が迫る中山道を間違えたようで、ここで二人の若者に頼み自刃したそうです。時は明治10年8月17日、満31歳の惜しまれる若さでした。
 三足集落入口の日豊線ガードの手前にある案内板です。
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 明治の偉大な外交官小村侯の幼少時の才能を見抜き、そして育て侯の活躍を導いた小倉処平先生の自刃の地を訪れ、道半ばでの若すぎる死を大変悔しく思うとともに、先生のご冥福を心からお祈り致します。

 その後、薩軍が8月15日の和田越えの戦いで破れて退却し、西郷隆盛が宿陣した長井村の児玉熊四郎宅(西郷隆盛宿陣跡資料館)を訪れました。
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 薩軍は、武器弾薬も尽き、負傷者も多く組織的な政府軍への対抗は困難な状況に陥っていたようです。
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 そこで西郷隆盛は最後の軍議を開き、薩軍の解軍を決意し、行動の自由を西郷直筆の書で公布したとのこと。  それは、「我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ」・・・・という内容です。
 さらに従ってきた愛犬を放ち、唯一の陸軍大将制服や重要書類一切を庭前で焼却したそうです。
 そして8月17日夜半に夜陰にまぎれ、総勢600人ほどで可愛岳突破を敢行しました。

 その後、小倉処平が官軍の銃撃で負傷したとされる和田越合戦の地も訪れました。
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 この和田越え激戦地の石碑は、国道10号線の延岡市街のはずれの稲葉崎交差点を右斜めに上がって行ったところにあります。ここは、西南の役で西郷隆盛が、初めて戦場に立ったところだそうです。
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 薩軍は和田越えを中心にして左右に連なる山丘に約5千の兵を配置しました。
 一方官軍は山縣有朋中将の率いる本隊を中心に約50000人で包囲し攻撃してきました。
 この時小倉処平は奇兵隊軍監として、この地の最南東にある友内山で戦い負傷しました。 その後薩軍は北川に退却し、小倉は坂地区の神田伊助氏宅で加療した・・・・・ということです。

 小村寿太郎とのかかわりについては、館長ブログの『小倉処平』と『小村寿太郎』をご覧下さい。 
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