目的の『東禅寺』は都営浅草線「泉岳寺駅」で下車し、徒歩で約7~8分のところにありました。

正門に扉では、伊東家家紋の『月に星九曜の紋』がしっかりと刻まれていました。


奥行きの長い通路を歩いて行くと、東京のど真ん中とは思えない広い森に囲まれた奥でご住職に迎えていただき、いろいろと貴重なお話をしていただきました。

この『東禅寺』の墓地には、飫肥藩主伊東家の江戸の菩提寺で2代祐慶、3代祐久、4代祐由、6代祐永、8代祐隆、9代祐福、10代祐鍾、11代祐民公などをはじめ歴代の正室等が静に眠っておられました。
この墓地については、関係者だけしかお参りできません。このため、写真等で公開することもできませんのでご了解ください。

また、この『東禅寺』は、最初のイギリス公使宿館だった場所で、東禅寺事件が2度に渡って行われた場所です。この東禅寺事件とは、文久元年に、英国の仮公使館だったここ東禅寺に水戸浪士ら十数人が斬り込み、警護の武士らが20人以上の死傷者を出しながら、公使のオルコックを守り抜いた事件のことです。このため、この後菩提寺として様々な出来事もあったようですが、詳細は控えます。
この『東禅寺』から歩いて3~4分のところに、忠臣蔵で有名な『泉岳寺』があります。

ここ泉岳寺には『藩主浅野内匠頭』や『赤穂浪士(四十七士)』の墓があります。

『藩主浅野内匠頭』と『大石内蔵助』の墓です。

松の廊下での刃傷沙汰の後、即日切腹となり、赤穂藩は御家断絶となり、のち吉良家討ち入りが果たされたのです。
辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
また、赤穂浪士達が吉良討ち取り後、この泉岳寺へ立ち寄り、吉良の首を藩主浅野内匠頭の墓前に供えたそうです。
次、最後は13代藩主伊東祐相公の墓地がある上野日暮里の『谷中霊園』 をアップします。

正門に扉では、伊東家家紋の『月に星九曜の紋』がしっかりと刻まれていました。



奥行きの長い通路を歩いて行くと、東京のど真ん中とは思えない広い森に囲まれた奥でご住職に迎えていただき、いろいろと貴重なお話をしていただきました。

この『東禅寺』の墓地には、飫肥藩主伊東家の江戸の菩提寺で2代祐慶、3代祐久、4代祐由、6代祐永、8代祐隆、9代祐福、10代祐鍾、11代祐民公などをはじめ歴代の正室等が静に眠っておられました。
この墓地については、関係者だけしかお参りできません。このため、写真等で公開することもできませんのでご了解ください。

また、この『東禅寺』は、最初のイギリス公使宿館だった場所で、東禅寺事件が2度に渡って行われた場所です。この東禅寺事件とは、文久元年に、英国の仮公使館だったここ東禅寺に水戸浪士ら十数人が斬り込み、警護の武士らが20人以上の死傷者を出しながら、公使のオルコックを守り抜いた事件のことです。このため、この後菩提寺として様々な出来事もあったようですが、詳細は控えます。
この『東禅寺』から歩いて3~4分のところに、忠臣蔵で有名な『泉岳寺』があります。

ここ泉岳寺には『藩主浅野内匠頭』や『赤穂浪士(四十七士)』の墓があります。

『藩主浅野内匠頭』と『大石内蔵助』の墓です。


松の廊下での刃傷沙汰の後、即日切腹となり、赤穂藩は御家断絶となり、のち吉良家討ち入りが果たされたのです。
辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
また、赤穂浪士達が吉良討ち取り後、この泉岳寺へ立ち寄り、吉良の首を藩主浅野内匠頭の墓前に供えたそうです。
次、最後は13代藩主伊東祐相公の墓地がある上野日暮里の『谷中霊園』 をアップします。
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