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 飫肥藩主伊東氏の軍神と称えられ、飫肥藩280年・伊東氏14代の基礎を築いたのが、名武将『山田匡得(やまだきょうとく)』です。 『飫肥城歴史資料館』には豊後藩主『大友宗麟』から賜ったとされる甲冑が展示してあります。 この伊東氏の武将『山田匡得』の墓を訪ねました。
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 都城との境にある酒谷地区の国道222号から約200m農道に入り込んで行くと、記念の石碑を見つけました。
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 この記念碑は、飫肥藩と都城を結んでいた旧飫肥街道に設置されています。
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 その記念碑から山手の方を見ると、小川の向こうに小さな祠が見えました。以前はここに橋が架かっていたのだと思います。最近手前の杉林が伐採されたようで、きれいに見通せるようになっていました。
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 その神社の鳥居の中央に『匡得神社』と掲げてあります。
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 祠の中には、賽銭箱の後ろに墓石らしき石が祀ってあります。
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 墓石の文字ははっきり読み取れませんが、『学翁京得居士』と刻してあるようです。
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 ここの神社の墓石は、『山田匡得』が仕えた伊東氏と飫肥城の覇権を巡って長い間攻防を繰り広げた島津氏の城の方を向け、睨みを利かして建てられています。
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 『山田匡得(やまだきょうとく)』は、慶長年間(1596~1614)から酒谷の地頭を命じられ、酒谷城主として島津氏の押さえとしての責任の重大さを痛感し、専ら武備を整え武術を練っていたそうです。その方法の一つとして弓術を奨励し、島津との国境に近い白木俣というところに的場を設けて大声で囃して気勢を挙げさして訓練させたそうです。このため、薩摩人は藩境に備えあるを知り、境を侵すことはなかったのだそうです。飫肥の『四半的』は、これが起こりともいわれています。
 飫肥藩伊東氏の軍神と言われた武将『山田匡得』は、享年79歳だったそうですが、亡くなった後も祀られて、地区民と一緒にしっかり飫肥藩を守っていたのでしょう。
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