今日、宮崎市への主張途中に別途用件で鵜戸神宮に立ち寄りました。

日南海岸にある鵜戸神宮は、古くから飫肥藩主伊東との関わりがありますが、島津も1585年豊後の大友宗麟の合戦の時に戦勝祈願をするなど、島津、伊東など歴代の藩主の崇敬されていたようです。

また、1560年伊東義祐は神殿を再興し、1641年飫肥藩2代目城主伊東祐久は神殿を修復しました。
今でも鵜戸神宮には、飫肥伊東藩の三代目藩主祐久が寄進した灯篭が残っています。

海岸の見える参道には、伊東の家紋(九曜紋)彫られた灯篭10基が並んで建っています。

人気の『運玉』投げには多くの観光客が、亀の形をした石の背中の窪みにめがけ、願いを込めて投げ入れていました。この投げ込まれる『運玉』の数から鵜戸神宮の参拝者数が把握されるそうです。

また、参道の楼門の両脇にある灯篭一対は、市指定建造物になっています。

その灯篭の横には説明文があり、飫肥藩が1800年から産業開発の一政策として楮(こうぞ)栽培を始め、和紙の開発と生産を行ったとのこと。その時飫肥藩が資金援助を受けたのが、大坂の両替商『油屋善兵衛』でした。

この『紙開発灯篭』は、『油屋善兵衛』が事業の成功を祈念して奉納したのだそうです。

また、この灯篭には、油屋一族とともに飫肥藩の役人達の名前も刻まれていました。

日南海岸にある鵜戸神宮は、古くから飫肥藩主伊東との関わりがありますが、島津も1585年豊後の大友宗麟の合戦の時に戦勝祈願をするなど、島津、伊東など歴代の藩主の崇敬されていたようです。

また、1560年伊東義祐は神殿を再興し、1641年飫肥藩2代目城主伊東祐久は神殿を修復しました。
今でも鵜戸神宮には、飫肥伊東藩の三代目藩主祐久が寄進した灯篭が残っています。

海岸の見える参道には、伊東の家紋(九曜紋)彫られた灯篭10基が並んで建っています。


人気の『運玉』投げには多くの観光客が、亀の形をした石の背中の窪みにめがけ、願いを込めて投げ入れていました。この投げ込まれる『運玉』の数から鵜戸神宮の参拝者数が把握されるそうです。

また、参道の楼門の両脇にある灯篭一対は、市指定建造物になっています。

その灯篭の横には説明文があり、飫肥藩が1800年から産業開発の一政策として楮(こうぞ)栽培を始め、和紙の開発と生産を行ったとのこと。その時飫肥藩が資金援助を受けたのが、大坂の両替商『油屋善兵衛』でした。

この『紙開発灯篭』は、『油屋善兵衛』が事業の成功を祈念して奉納したのだそうです。


また、この灯篭には、油屋一族とともに飫肥藩の役人達の名前も刻まれていました。
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