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『都於郡(とのこおり)城』
 飫肥城初代藩主伊東祐兵の父義祐の居城であった『都於郡(とのごおり)城』に行ってみました。
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 県道沿いにある「都於郡小学校」の角から車で400~500m走り、そこから階段を上り詰めたところが本丸跡です。
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 本丸跡の中心正面には、ここ西都出身の伊東マンショの銅像が建っています。
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 南北朝時代の建武2(1335)年、伊豆国から下向した伊東氏(祐持)が都於郡の地に築いた山城で、以来、242年間にわたり日向の地を 治めた伊東氏累代の居城としてその栄華を極めました。
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 この城は、標高100mの台地に位置し、廻りを急峻な断崖に囲まれ、 西北方は三財川が外堀の役目を果たし、五つの城郭(本丸・二ノ丸・ 三ノ丸・西ノ城・奥ノ城)から構成されている主体部の他、東ノ城・ 向ノ城・南ノ城などの出城を構え、空堀や土塁を巡らせた堅固な城です。
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 また、遠くから眺めた状態が、舟が浮いているように見えたところから別名「浮舟城」とも呼ばれたようです。
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 『本丸』の隣にある『奥の城』の崖には、『オカメササ』という笹が群生していました。
 『オカメササ』は、飫肥城の土手にも多く見られますが、江戸・浅草の酉(とり)の市でこのタケの稈におかめの面をつり下げて縁起物として売られてところからこの名前がついているそうです。
 本丸跡に「伝説地高屋山上陵」という石碑があります。
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 この都於郡城跡のある地名は西都市高屋というそうです。この都於郡城址こそ宮崎の史家が「彦火火出見尊」の陵「高屋山上陵」という伝説の地であるとのこと。
 なにか宗教的な意味があるようにも思えますが、一見して近世のものでは無いようですが、この石柱は上陵跡のように見えました。


 都於郡城は伊東氏居城として拡張整備され、 伊東義祐の代に最盛期を迎え、日向の大半(最大48支城)を抑えていました。
 しかし、天正5年(1577年) 島津家に敗れた 伊東義祐は、豊後に逃亡し島津家の領有となり 鎌田政親が城主となります。

 そして天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後は、佐土原城主島津氏の所有となり、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となってしまいました。
 都於郡城には石垣が見かけられませんが、今でも中世の城の城郭がそのまま残されています。飫肥城も当初はこのような城であったのではないかと、思いを馳せました。
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