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えびの市歴史民族資料館
 県博物館協議会研修がえびの市で開催され「歴史民俗資料館」を見学してきました。
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 資料館では『矢尻(鏃)の作り方と進化』をテーマにした企画展が、開催されていました。
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 市社会教育課の中野さんから企画展の案内をしていただきました。
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 弓矢の矢の先に付けるものが矢尻です。矢尻は、石・木・骨・鮫歯・牙・竹・銅・鉄製のものがあり、通常石鏃と言えば、打製石鏃のことだそうです。ここに展示してある矢尻は、えびの市内の圃場整備に伴う発掘調査によって出土したものだそうです。主に縄文時代(10,000~7,300年前)の土層からのもので、石鏃(矢尻)の完成品だけでなく加工途中のもの、失敗品など数多く出土したそうです。
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 石鏃(矢尻)つくりですが、旧石器時代(約30,000~15,000年)には、既に原石を連続して同一規格に剥片する技法が確立していたようです。縄文時代になると、表面の風化面を打ち欠いて適当な剥片素材を得、さらに細かい剥離を施して形を整えていく方法に変わっていったそうです。
 仕上げは、鹿角でピンポイントで押圧して左右対称形に薄く鋭くつくり上げるとのこと。
 矢尻に良く用いられた「黒曜石」は、ガラスと同じ性質なので、打撃を加えると円錐形の方向に割れやすく、打撃の方向や力加減で割れる方向や大きさを決めることができるようになるようです。

 ところで、ここの常設展示場には、私にとって興味のある二つの展示がされていました。
 一つは、飯野城(現宮崎県えびの市)の城主であった島津義弘が、伊東の大軍を破った「九州の桶狭間」とも呼ばれる「木崎原の戦い」の展示コーナーです。
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 「木崎原の戦い」は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦です。当時日向国の大半を手中にしていた伊東義祐は、3000の大軍を擁して、約300の兵力しか持っていなかった島津側の真幸院地方を攻め込んだ戦いです。この戦いは予想に反し島津義弘に大敗したことから「九州の桶狭間」とも呼ばれているようです。この戦いでは、双方で約800人が死亡したといわれます。
 この戦いをきっかけとして伊東氏は急激に衰亡し、大友氏を頼って豊後落ちするわけですが、その後島津の勢いは増し、大友氏も「高城川の戦い(耳川の戦い)」で敗れます。
 戦いの後島津義弘は、この合戦地にある池島地区に供養碑を建てましたが、現在でも池島地区の皆さんは、戦のあった5月4日に毎年供養祭を行っています。それまでは島津側だけの供養祭でしたが、4年ほど前から、飫肥の伝統芸能(泰平踊)も奉納をしています。
 ところでこの戦いから遡ること12年前の永禄3年(1660年)に、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入ってます。しかし永禄5(1562年)、薩摩本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となったようです。
 
 二つ目は、奈良東大寺の大仏殿の建設時に使用された霧島産の「アカマツ」伐採の説明コーナーです。
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 私は、昨年11月に奈良東大寺を訪れましたが、東大寺は世界文化遺産に登録され、木造建築物の大仏殿としては世界一だそうです。
 728年に聖武天皇が建立した金鐘寺が、東大寺の始まりだそうです。大仏は752年に開眼供養が行なわれ、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年とのこと。その後1180年に平重衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失したようです。
       ・東大寺2

 その後、1709年に現在の大仏殿が再建されましたが 、この時にえびのの霧島山から切り出された赤松の大木2本が、大仏殿の天井の梁になって支えているとのこと。
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